街道と水運の史跡を探る科  5期生 豊中教室

        
 ― 7月校外学習 ― 「木津川右岸“上狛”古来交通の要地を訪ねる」 

                                 2017.07.07
        今日の目的地JR奈良線上狛駅1030分集合、普段下車することのない駅です。
          JR上狛駅前で前田先生から、水分補給をして熱中症にならない様にと一番に話を
      され本日のコース概要の説明がありました。





    先ず最初に川港、木津川北岸の泉橋寺の門前に
   渡しが存在した所を見学。

      飛鳥に都が置かれ藤原京に必要な木材が、滋賀
   県湖南地方から宇治川・木津川を介して
木材が運
   ばれ集積地の役目をした所がここでした。

 
 

         渡来人、狛氏一族の環濠集落の足跡が現在は寺跡・堀・道路として残っております。
           当時の面影はありませんが、京都から奈良への交通の要所で、お茶・酒屋等の当時
      の産業の一端が窺われます。





    駅前の藤棚の下で昼食後、駅より1km
  程東の高麗寺跡を見学。
 

     寺跡周囲は何もなく、早苗が成長して緑の田圃と
    なり、気持ち良い田舎風景の中です。

       寺跡には新しく礎石が敷設され、礎石から当時の
    建物の想像心を起こさせます。

 

          13時過ぎ高麗寺跡から希望者のみで、先生引率のもと京都府立山城郷土資料館へ。
           木津川と狛の山に囲まれた 高台に資料館はありましたが なかなか分かりづらい
          位置にありました。

 

  古代の出土品が、丁寧に復元されており、特にお茶
 の産地らしく、陶磁器が展示されて、
また、近代の有
 名な茶人使用と同じ器も出品されております。

   日本で最初に流通貨幣(和同開珎)の製造過程や状
 況の分かり易い展示もありました。

   14時頃 資料館をでて解散式を行い、JR木津駅ま
 でそれぞれの歩調で帰路に着きました。

 

         梅雨の蒸し暑い中、案内をしていただきました、前田先生・CA葭中さん・班長の
        方々そして参加の皆さんお疲れさんでした、有意義な一日を有難うございました。

 
   Top Page 







          街道と水運の史跡を探る科
  5期生 豊中教室

         
  ― 6月校外学習 ―    「竹 内 街 道 を ゆ く」

                616日(金)梅雨入り宣言があったものの、連日の快晴で本日も同様の快晴
              近鉄上ノ太子駅(羽曳野市飛鳥)に集合。
          ここから本題の「竹内街道」を「竹内街道歴史資料館」(南河内郡太子町)ま
          で往復。その後上ノ太子駅北側にある観音塚古墳を見学しました。
   上ノ太子駅前で前田先生の説明を受け出発。

この辺りはブドウの産地で、ビニールハウスが多く見られる。

アジサイ、ザクロなどの季節の花も美しい。

    以下、街道の風景です。


太子町山田(大道)の案内板
 

「和を以って貴しと為す」の太子町のマンホール蓋

国登録文化財 大道旧山本家住宅(太子町)
「太子町立竹内街道歴史資料館」で学習

    最後に、上ノ太子駅の北側にある観音塚古墳の見学です。       飛鳥時代の終末期古墳、横口式石槨。110段の階段を上ります。

  古墳の眼下に新池があり、奥のヨシハラが新池遺跡(旧石器)、サヌカイトが採集できます。


駅と古墳の中間に飛鳥戸(あすかべ)神社、
小さな神社ですが式内社です。
   Top Page 





     
      街道と水運の史跡を探る科
  5期生 豊中教室

          
5月第1回校外学習  「西国街道をゆく」 水無瀬~山崎
 


     5
19日初夏とも思えるような快晴の中「街道と
    水運の史跡を探る科」のメンバーは第一回校外学習
    に参加しました。
     阪急水無瀬駅に集まり、西国街道を大山崎まで出
    発しました。JR島本駅でJRからの人と合流し、
    島本町立歴史文化資料館を見学。
    
 




    建物は有形文化財でなかなか立派であった。旧名の「麗天館」
  当時の扁額は近衛文麿の書である。
   鳥羽伏見の戦いがあったことも、改めてこの地域の歴史的な
  背景を感じさせた。










   駅前の公園には有名な「楠正成・正行親子の別れの像が
あつ
  た。ここから、父は西国街道を西へ神戸まで行き戦死。
   
子は高野街道を南へ進み本拠で再起を期す。歴史の大ロマン
  の
ロマンの場所だ。
   林立している石碑も近衛文麿、東郷平八郎元帥、
乃木希典陸
  軍大将などの書で楠親子をたたえている。
 

     いよいよ,旧西国街道に入る。道は細くて自動車もよく
    通る。少し歩きにくいが、皆さん端に
寄って行儀よく並ん
    で進んだ。
     新しい家も多く道路も舗装されているが、何となく細く
    て曲がり
ながら進む道に、昔の街道の気分を味あう。
       ほどなく水無瀬神宮の案内が見えた。さほど大きな神社
    ではなかった
がこんもり茂った木々に歴史を感じた。
     昭和の名水百選には、ここの
「離宮の水」が大阪府で唯
    一選ばれている。30年も昔の話だが今も
大勢の人が、こ
    の名水を汲みに来ていた。

 


  水無瀬神宮を出てもう少し街道を上がると、すぐ右手に
「関大明神社」
がある。
  今は何も語りかけてくれない神社だが綺麗に掃除されていた。

  関大明神社を右に曲がれば、すぐ左手が離宮八幡宮であり、
 ここの境内で昼食をとらせていただいた。

  
         荏胡麻油発祥地として全国に名を馳せた神社も今はひっそりとしていたが、誰とはなし
        に一介の油売りから、大名になっ
斎藤道三もここへ油を仕入れに来ていたのだろうか等
        と話し声がきかれた。
 
             ここから大山崎町立歴史博物館まではほんの数分であった。
             短い距離ではあったが感じたことは、頭で知っている事と、実際に歩いてみて感じるも
        のには
違いもあるという事だった。
         現代人は電車や自動車で移動してしまうが、当時の人はこの天王山
が南にせり出し、淀
        川との間の狭い街道を歩きながら、この街道の南を並走する淀川を見おろし
そのまた南方
        の大阪平野を眺めながら政治の事やビジネスの事に頭を絞っていたのであろう。

        その上、この地域は都に近いせいか大変豊かな香りがした。
 
   Top Page 





       街道と水運の史跡を探る科  5期生 豊中教室

         
第1回探訪  神武天皇東遷の伝承跡を訪ねる “ 日下江 ”




  4月28日(金)・晴れ
  近鉄奈良線の石切駅,北出口の東側に集合
  前田先生から今日の探訪の説明、注意点など聞く。

 
 
 

   駅の西側に行くと大阪平野が見渡せます。
  あべのハルカスも見えます。
  ⇒  
  見下ろす眼下は、古代、河内湖でした。

  
河澄家とカヤの木

 
  
          南北朝時代の応安二年(1369年)に入滅した日下連(くさかむらじ)河澄与市大戸清正
          に遡り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り、日下村の庄屋を務めた旧家です。
          明星派の歌人「石上露子」の実家。
          国文学者 上田秋成 と親交があり、秋成の随筆『山霧記』にも河澄家を訪れたことが
          記されています。
 
                神武天皇東征 聖蹟盾津顕彰碑



  古事記によれば 神武東征のおり 軍は日向を出て瀬戸内を
  通り大阪に着く。
  さらに東に「浪速の渡」を経て「日下の蓼津」に。
  この時 ナガスネヒコ(以前からこの地に勢力を持っていた
  先住民)の軍隊が襲い掛かりイワレビコのミコトは熊野にル
  ートを変えた。
  戦闘場所は「孔舎衛坂」という生駒山系に至る細い山道。
  古代は大きな入江(河内湖)で この辺は港であった。
  この地に泊まり生駒を越えヤマトに入ろうとしたのである。
  「ヒノモト」は「草香」にかかる枕詞。「ヒノモト(日下)の草香」
  が転じて「日下」・「日本」が「くさか」という呼称になったと言う。
  「日下」は「ヒノシタ」、「ヒノモト」と読み「日本」のルーツである。

 
  

        
日下貝塚之詩

その昔、大阪湾は「茅淳の海」とよばれていた。
生命の母なる「茅淳の海」は、河内の入り海として大きく生駒の山麓
まで押し寄せてこの地を長らく「河内湾」と呼ぶ時代が続いた。
まだ「稲作り」を知らない古代の人々食糧はすべて海から山から
自給自足。前には海の幸いっぱいの 扇状台地
古代の人々の住む、ここは水の清らかな、一等地、男は生駒山で
けものを追いかけ、女や子どもは海辺へ出て貝を拾い集めた。
その数々の海の幸は
「セタシジミ・オオタニシ・イケチョウガイ・チリメンカワニナ・マガキ
・フトヘナリ・ハイガイ・カガミガイ・ハマグリ・ウチムラサキ・
サザエ・・・・・・・・・」
    彼らの日常生活の糧、それらすべては「日下貝塚」深い土の下に今でも眠りよく保存されている。
  「日下貝塚」 それは畿内で最も栄えた或る時代を証明する歴史の宝庫
  「日本(にっぽん)の古い読み方それは「ヒノモト」そしてまた「日下(クサカ)」も???
  「ヒノモト」或いは国名「日本」の地名の発祥地。出発点こそは、この「日下地方」にあったのではないか?
  こんな研究まで、今、歴史の諸説が飛び交う。
  孔舎衙・草賀・草香・久佐迦・みんな「日下」と読む。
  その生きた証人こそ。繁栄を物語る。
  「日本の貝塚」伝えのこしたい。
  私たちの歴史のふるさと!!
                                          作詞 奥田 哲郎


                東大阪埋蔵文化財センター



                 埋蔵文化財センターの学芸員さんから、プロジェクターで説明して頂きました。
            その後、先生にも説明して頂きながら、埋蔵文化財センターを見て歩きました。

                瓢箪山 稲荷神社



   帰りは近鉄瓢箪山駅です。
  途中稲荷神社に寄りました。
  稲荷神社の後ろは古墳でした。

 
   Top Page